前回の「日本酒の歴史シリーズ 酒税について その1」に引き続いて、今回は明治時代から戦前にいたる酒税の歴史を見ていきたいと思います。

 

はじめに

 

明治、大正期における酒税は国税収入の大きな割合を占めていました。日清戦争・日露戦争では戦費を酒税で大きくまかなったとされています。

国は酒類に重い税をかけ、その代わりに免許制で新規参入を制限して競争を抑制するという関係が形成されていました。

そうして、酒造業界は国家と深く結びついていきます。業界は多数の国会議員や地方議員を輩出しました。岸信介、池田隼人、佐藤栄作、竹下登、宇野宗佑という歴代宰相はみな酒造家の出身でした。

そんな、国家に強い影響をもっていたともいえる日本酒。その酒税を明治時代から現代まで

、順に確認していけたらと思っています。

 

明治・戦中までの酒税

明治天皇が京都から東京に移住。出典:「Le Monde Illustre」、1869年2月20日。

江戸時代が終わり、明治時代にはいると、これまでの酒税制度が廃止されていきます。明治政府は、江戸幕府が定めた複雑に入り組んだ酒株に関する規制を一挙に撤廃し、酒類の税則を醸造税と営業税の二本立てに簡略化して、醸造技術と資本のある者ならば誰でも自由に酒造りができるように法令を発しました。これまで、酒株がなければ酒造りの免許が持てなかった酒株制度を廃止したのでした。

 

ちなみに、日本酒という名前が生まれたのも明治時代だとされています。米と麹と水のみで造る日本酒に欧米の醸造家が興味を持ち、自国の酒との区別をつけるためについた名前とされています。実際、昭和の初期・中期あたりまでは、居酒屋で「酒」と注文すれば日本酒が出されるのが一般的でした。

話を戻します。こうして、広く自由化された日本酒の業界でしたが、問題も続出していきます。西南戦争(明治10年・1877年)以後の財政難と地租改正に対する農民の抵抗に悩まされていた明治政府は、当時の日本の工業で最も生産額が多く、ほとんどが国内消費に回されていて関税の問題も薄い日本酒に対する増税を度々行いました。

それに対して、酒造業者は当然のごとく不満が募っていきます。そんな、1881年5月、高知県の酒造業者300名が政府に対して造酒税の引下げ嘆願を提出するとともに、地元出身の自由民権運動の指導者植木枝盛に助力を求めたのでした。植木は、同年11月1日に来年1882年5月1日に大阪で全国規模の酒屋会議を招集して減税と営業の自由を求める檄文を作成しました。政府は自由党を刺激するのを避けるために植木の容疑は不問として、檄文に署名した島根県の小原鉄臣ら酒造業者5名のみを禁固刑としたのでした。

 

これを不服とした植木は、なおも会議を続けていきますが、やがて大阪府知事と大阪府警は会議の禁止を通達します。全国各地でも酒造業者による集会の禁止命令や大阪に向かう会議代表団が逮捕される事態が相次いで起きていきました。植木は「会議は禁止されても代表に会う事までは禁じられていない」として、5月4日に淀川上の船上で大阪入りできた代表と会合を持ち、5月10日に京都祇園で改めて2府15県代表44名と会議を開催して先に禁固刑を受けていた小原鉄臣を代表者として「酒税軽減嘆願書」を作り政府に提出しました。これは、大阪酒屋会議事件(おおさかさかやかいぎじけん)と呼ばれています。日本酒の近代の歴史上においてもかなり大きな事件でした。

 

政府はその報復として、大増税を行いました。当然のように、酒造業者は激しく反発しました。が、松方財政による米価低迷が日本酒の価格下落を招き、運動は停滞していきました。ですが、結局のところ酒造業者の経営不振はやがて税収減少に跳ね返ることとなります。政府はどぶろくなどの自家醸造禁止などの酒造業者保護策を打ち出して酒造業者との妥協策を探る方向に転換することになっていきました。

 

ちなみに、1875 年(明治8 年)の酒類税則では、酒造営業税(1 期10 円)、酒精請売営業税(1 期5円)、さらに醸造税(酒類売捌き代金の1 割)が課されていました。この課税の対象酒類は、清酒、濁酒、味醂などで、ビールに醸造税はかけられませんでした。

 

それから、3 年後の1878 年には醸造税(従価税)は造石税(従量税)に変更になりました。このとき酒の種類によって税率に差がつけられます。一石(180,000ℓ)あたり清酒は1 円、焼酎は1.5 円でした。

 

さらに1880 年には酒造免許税と酒造造石税の二本立てに整理され、醸造酒、蒸溜酒のほかに再製酒(味醂など)の区分ができます。ですがまだ、この頃の区分はシンプルでわかりやすいものでした。

 

ところで、こうした酒税制度の整備は、明治政府による税制全体の改革のなかで進められたものです。維新後、政府は租税を整理し、安定した財源をもとめて地租改正を推進します。土地を評価し、工作者ではなく土地の所有者から、評価額に応じた地租を貨幣で徴収するように改めました。そして、前述したように当時の最大の産業であった酒造業への課税を強化していきます。課税率はどんどん上昇し、国税に占める酒税の占める割合は一気に上昇します。

1873 年には1.5%だったものが、1887 年には19.7%、1897 年には30.8%に達します。課税はその後も強化され、日清戦争と日露戦争の間にあたる1890 年代には、酒税収入が国税の30%~40%を占めるようになります。その後、構成比はどんどん下がって現在では3%足らずになっていますが、1985 年(昭和60 年)頃まで酒税が減税されることはほとんどありませんでした。

 

明治後期になると新たに広がり始めた酒類への課税が本格化します。1896 年に酒造税法が制定され、清酒・味醂など、焼酎、混成酒の三区分が設けられます。混成酒は酒類を混合して製造する飲料とされています。20 世紀に入った1901 年、ここからビールへの課税が始まります。ちなみにその2 年前には、自家醸造が一切禁止され「酒は買うもの(酒税を払って飲むもの)」とされます。

 

この後、1935 年頃までは同じフレームで増税が繰り返され、1938 年(昭和13 年)には酒類の販売も免許制になり、メーカーだけでなく流通も統制されるようになります。2 年後に造石税のほかに蔵出税が掛けられ、さらに戦時下の1943 年には級別制度が導入され、課税額は3 倍~8 倍に跳ね上がります。戦後は酒類ごと、級ごとに、消費量が増加しているものは担税力があるとして、高負担が要請されます。さらに中小の酒類企業の保護育成や原料作物の生産農家への配慮、各酒類のユーザーの所得水準などを加味しながらたびたび酒税率を修正していったため、制度は複雑なものになっていったのでした。

 

いかがでしたでしょうか?

今回の「その2」は思ったより長くなってしまったため、次回の「その3」戦後から現在に至る酒税をみていきたいと思います。

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