焼酎の歴史シリーズ、前回の「起源の謎」に引き続いて二回目は、「近代焼酎の父」と呼ばれる河内源一郎氏をご紹介したいと思います(以下敬称略)。
はじめに
河内源一郎 (wiki)
河内源一郎がなぜ「近代焼酎の父」と呼ばれているかというと、焼酎業界ひいては酒業界に様々な功績を残しているからに他なりません。なかでも、芋焼酎では一般的な、黒麹と白麹の発見は非常に大きな功績として残っています。今回は、簡単にでもその二つの功績を追っていけたらと思っています。
河内源一郎の半生
河内源一郎は明治16年4月30日、広島県福山市に生まれました。実家は代々続いた味噌・醤油屋の「山田屋」でした。家業の影響もあってか、彼は幼い頃から麹や微生物に興味を持っていたといわれ、後に大阪高等工業学校の醸造科に進学します(現在の大阪大学発酵工学科)。卒業後の明治42年、大蔵省(現在の財務省・金融庁)の役人となった彼は、税務監査局の技師として鹿児島に赴任しました。その赴任こそが、鹿児島焼酎との出会いとなりました。
当時の焼酎は今とは比べものにならないくらい、まずい酒だったようです。芋焼酎自体は、江戸時代の終わり頃、島津斉彬公の頃に生まれたものです。杜氏は、芋焼酎が造られるようになって100年も経っていな頃でした。製品にはばらつきがあり、腐ることも頻繁にあったそうです。
鹿児島は非常に温暖な気候ですから、暑くなればなる程、焼酎の歩留り(製品の良品と不良品の割合)が悪くなっていきました。
「何かヨカ手だては なかどかい!!」(写真は西郷どん)
彼は巡視先で幾度となく、焼酎の歩留まりが悪いという悩みを業者から聞かされていました。
そんな苦境に対し、彼は程なくこの問題の解決の糸口を発見します。
「種麹に使っている黄麹(日本酒と同じ麹)が熱に弱いのが原因じゃないか?」
河内源一郎は、鹿児島よりもっと暑い沖縄で造られている泡盛に目をつけました。そして明治43年、泡盛の麹菌から種麹の分離に成功します。なんと鹿児島に赴任してから、たった1年後のことでした。その麹菌は、河内菌黒麹(アスペルギルス ヴァル カウチ)と名付けられます。いわゆる黒麹の誕生です。暑さに強い黒麹の発見は、醸造家から歓迎されました。歩留まりも劇的によくなり、焼酎づくりは飛躍的に伸展していくこととなります。
泡盛館においでよ♪ より
この黒麹の発見こそが、一つ目の大きな功績です。
その後、河内源一郎は徐々に麹の研究にのめり込んでいくこととなります。黒麹の発見から後、種麹製造に関する特許を三件も取得していきました。
そして、大正13年、河内源一郎は黒麹の中に白い胞子を作る突然変異種を発見します。これこそが、「河内菌白麹」(アスペルギルス カウチ キタハラ)と名付けられた、いわゆる白麹の誕生です。
黄麹から黒麹、そして白麹へ。現在では、技術の発展によって、焼酎は黄麹でも普通に生産できるようになりました。しかし、明治から現代へと続く焼酎の発展を追うに、河内源一郎はまさに近代焼酎の父と呼ばれるべき功績を残した人物といえるのではないでしょうか。
終わりに
やがて、河内源一郎は大蔵省を退官して、鹿児島市清水町に工場を構え、自ら開発した各種焼酎用種麹の製造と販売に乗り出していきます(「河内源一郎商店」現在の「株式会社錦灘酒造」)。
昭和23年3月31日、彼は、容体が急変し、自宅で息を引き取ります。66歳でした。妻が着物の乱れを直そうと胸をさぐると、麹と蒸し米が入った数本の試験管を握りしめていたといわれています。終生、研究に情熱をもち続けた河内源一郎らしい死に際ともいえるかもしれません。
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