吟醸、純米吟醸、大吟醸、純米大吟醸など、現在日本酒における「吟醸」という言葉は、精米歩合を表す言葉として認知されている。

日本酒を造る際に、酒米を精米する必要があるのだが、その磨きの幅によって「吟醸」、「大吟醸」と分けられるのだ。「吟醸」と名付けられる日本酒であれば、精米を60%~50%行われたということであり、「大吟醸」であれば、精米歩合50%以上磨いているということになる。ちなみに、精米歩合とは、玄米を100%とした時、外側を削った分量を指している。つまり、精米歩合45%であれば、55%の外側を取り除いた酒米ということになるのだ。

「吟醸」という言葉を辞書でひいてみると、「酒・醬油・味噌などの、吟味した原料を用いた念入りな醸造」とある。本来の語義的な意味であれば、「吟味」した材料で「醸造」するといった意味になるのだろう。

そんな「吟醸」という言葉は、いつ頃生まれた言葉なのだろうか?「吟醸」という言葉のイメージから考えるのであれば、昔からある言葉という趣を感じる人も多いように思う。しかし、調べてみると、どうやら生まれてからまだ、100年程度の言葉だったらしいのだ。

 

吟醸について

「精米」は、織田信長や豊臣秀吉の時代、戦国時代の末期、安土桃山時代の「奈良」で生まれたとされている。当時は、「僧坊酒」といわれて寺院で造られていたお酒だった。

当時の精米という作業は、はっきりとはわかっていないが、石臼を使って人力で行われていた。そのため、効率も悪く、一昼夜・二昼夜問わず行われても、9割程度の磨きだったのではないかと言われている。

実際に明治40年代(1910年頃)から始められたいわゆる鑑評会の出品酒のデータを見てみても、90%~75%の精米とされている。安土桃山時代から300年以上経た明治40年代(1910年)ですら、精米技術の進歩はそう見られないのだ。そう考えてみると、近年の精米技術の発達には目を見張るものがあるが、それは別の機会に譲りたい。また、鑑評会については、のちほど。

現在の精米に近づいてくるのは、昭和5年(1930年)のこと。この頃になると精米は60%~55%となり、現在の「吟醸酒」のカテゴリーに収まる。最も、鑑評会に出品していた酒だということを合わせて考えれば、現在で言うところの「大吟醸酒」ということになるのだろう。ちなみに、この精米技術の発達には機械の発展があげられる。精米で考えてみると、日本酒の近代化と呼ぶことのできる時代なのかもしれない。

現在の酒造業界における「吟醸」は前述したように、精米歩合を前提とした言葉だが、初めて文献の中に現れるのは、明治42年の醸造試験報告の中で鹿又親(ちかし)氏の「広島県酒造法調査報告書」だ。その中に、「吟醸物」と「普通物」との記載があり、この「吟醸物」というのが、初めて使われた「吟醸」という言葉だと思われる。

もちろん、明治42年以前から口語としては使われていたと考えることもできる。大正6年の桐原花村氏編「天下の芳醇」の中で、明治26年に広島の竹原の酒造家が、いい酒を醸造するための極意を知ろうと様々な銘醸地を訪問した際に、当時最も名高かった灘の酒造家に尋ねると、「上酒吟醸の秘訣は新桶使用にある」と言われ、てきとうにあしらわれた。というエピソードの記述があり、「吟醸」という言葉が登場している。もちろん、大正6年の本であるから、当時を振り返りながら現在の言葉として書いている可能性もあるが、明治26年以前から、進んだ酒造りの現場では昔から使われていたとも考えられる。

ちなみに、現在のように「吟醸」という言葉が一般的に使われるようになったのは、昭和48年(1973)頃からのことで、小学館の『日本国語大事典』に「吟醸」という言葉が掲載されており、一般化し始めたのがこの頃からと考えられる。

とはいえ、調べてみると自由律俳句で有名な放浪の俳人種田山頭火の「其中日記(十)」(昭和12(1937)年1月1日~昭和12(1937)年7月31日)の中に、「夕月がほのかに照る、白船君だしぬけに来庵、これはこれはとばかり話しこんでしまつた、八時の汽車へ見送る、お土産の吟醸をいたゞ(だ)く。」とある。昭和12年には言葉のプロである俳人の山頭火が知っている程度には普及していたとも考えられる。が、実は、この種田山頭火の父親が一度古くからの酒造場を買収して、種田酒造場を開業していたという時期がある。最も、失敗して1年程度で廃業しているのだが。

問題は、その開業していた時期と場所だが、時期は明治39(1906)年12月から明治41(1908)年までの間で、場所は山口県吉敷郡大道村だったという。広島との距離で考えてみると、明治の時代も併せて考えれば、近いと言えなくもないが、遠いと言えなくもない距離だ。さて、このことを合わせて考えると、「吟醸」という言葉は、明治39年頃には既に、酒造界隈ではよく使われていた言葉だったとも考えられる。が、また、昭和10年代には言葉のプロが使う程度には普及していたともとれる。現に、昭和10年代の吉川英治作品の中にも「吟醸」という言葉を確認することが出来た(吉川英治は酒好きとしても有名なため、個人的な酒造家とのつながりは考えられる)。

そもそも、「吟醸」の「吟」は、「詩を吟ずる」という言葉からも分かるように、「詩を味わう」といった意味が存在している。俳人の種田山頭火が使っていたというのは、感慨深いものがあるだろう。

ちなみに、酒造業界内の言説の中で「吟醸」という単語が散見されるようになるのは、大正時代(1912~1926年)のことである。

 

鑑評会について(広島)

前述した、鹿又親(ちかし)氏の「広島県酒造法調査報告書」にしても、桐原花村氏編「天下の芳醇」のエピソードの話にしても、中心となっているのは広島である。では、なぜ広島だったのか?現在から考えると、確かに広島は酒処としても有名だが、少なくとも明治~昭和の時代を合わせて考えても酒と言えば、灘や伊丹や伏見を中心とした関西が本場と目されていたはずである。その理由には、現在でも行われている鑑評会の存在が大きく関係している。

鑑評会(この頃は品評会とも)が開催されだしたのは、明治24年ごろからのことで、この頃の鑑評会は熱心な酒造家が集まり各地域毎で行われていたものらしい。とはいえ、これ等はあくまでも小規模なものと言わざるを得ず、本格的な規模と呼べる鑑評会は明治40年に初めて行われたものである(小さい規模が鑑評会ではないという意味ではなく、あくまでも便宜上)。

初めての本格的な規模の鑑評会が行われる3年前の明治37年に、国立の醸造試験所が作られ、安全な醸造と品質向上への技術研究が行われるようになったのだった。日本酒の文化発展に多大な影響を与えたといえるろう。

そんな醸造試験場を借りて、明治40年の秋に日本醸造協会の主催で鑑評会は行われたのだった。出品された酒は全部で2000点を超えていたという。当時の酒造家の熱心さが伝わる。そんな中、最もいい評価を得た優等酒は全部で5点しかなく、広島県の酒が2点と最も多く選ばれ、次いで福岡、岡山、兵庫が1点ずつと続く。

大抵の関係者たちは優等酒に選ばれる酒は「灘」「伊丹」(兵庫県)のものだろうと考えられていたので、この「広島」という結果は驚きをもって伝わったことなのだと思う。また、この結果があったからこそ、前述した明治42年の鹿又親(ちかし)氏の「広島県酒造法調査報告書」につながるのである。広島の酒の秘密とは?といった趣だろうか。

 

終わりに 広島の酒造りについて

江戸時代に「下り酒」として珍重された灘の酒(ちなみに、現在にも残る「下らない」の語源)だが、硬水で造られた辛口の酒だったとされている。そもそも、今でも言われているように、いわゆる硬水を仕込み水に使うと辛口の酒になりやすい。もしかすると、「酒は辛口がいい」といった一種の概念のようなものは、この古くから残る灘の酒といった意味合いが残っているせいなのかもしれない。

対して、広島の酒の仕込み水にはやや軟水が多く、そこが灘との大きな違いだったとされる。当初、灘の技術を受け入れて「灘の酒を造る」といった目標を持っていた広島の酒造家達であったが、徐々に広島の水に適した、自分たちの仕込み水にあった日本酒を造るといった方向性にシフトしていったのだった。この時の酒造りへの想いが、鑑評会での結果につながったのだと考えられる(広島といっても、地域により硬水の酒蔵もある。また、軟水の酒造りと言えば伏見が有名だが、ここでは割愛する)。

ちなみに、当時の広島の酒はどういったものだったのかということだが、前述した鹿又親(ちかし)氏の「広島県酒造法調査報告書」の中に「醸造用米ハ第二章ニ於テ記載セルカ如ク吟醸用ニハ備前米ヲ使用シ普通物ニハ主トシテ広島県,愛媛県産出ノ米ヲ使用ス」とある。備前米、つまり、今でいう雄町米を使用して吟醸用の酒を造っていたということが分かる。

 

「吟味」して「醸造」するという意味の「吟醸」。書かれた言葉として現れるのは、明治40年の広島からだが、「吟」という言葉の意味から考えると、関西のそれも京都辺りから生まれたといった趣を感じる。そう考えると、伏見からだろうか?それとも、摂家である近衛家の御領であった伊丹だろうか?あるいは、「天下の芳醇」に登場している灘だろうか?とはいえ、酒造りの現場が基本的には職人の働き場であった以上、余り文献が残っていないのは当然と言えば当然である。そうである以上、「吟醸」という言葉がどこから生まれていったのかは判然としない。そんな歴史の謎に思いをはせつつ、本記事を終わらせたいと思う。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

参考文献

樋口 達也 「広島県における明治期の酒造業-三浦仙三郎の業績と西条の酒造業発展の経緯-」

池田 明子 「三浦仙三郎と「吟醸」初見」

秋山 裕一 「吟醸造りと品評会の歴史から(その一)」

秋山 裕一 「吟醸造りと品評会の歴史から(その二)」

鹿又 親  「広島県酒造法調査報告書」『醸造試験所報告』26巻27巻 明治42年 (なお引用した一文は、27巻から)

 

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