一升瓶の誕生
一升瓶が誕生したのは、未だ文明開化のなごりのある、明治34年(1901年)のことでした。
それまでの日本酒は、酒販店で桶や樽からの量(はか)り売りで販売されていました。その時代では、客は徳利や大徳利等の容器を持参して購入していくことが一般的だったのです。
一升瓶の誕生より12年前の明治22年に、国産の瓶でビールが詰められて販売されるようになりました。つまり、日本で瓶を造るということが、実用ベースの技術になり始めたということです。
桶からの量り売りという江戸時代からの販売方法ではなく、規格化された瓶の販売へ。いわば、一升瓶というのは日本酒の近代化である、という視野から眺めることができます。
そもそも一升瓶が生まれた理由ですが、それは酒屋が水をお酒に足して、かさ増しして売るのを防ぐためだったと言われています。
当時の時代背景を考えてみても、日本酒の水増し問題は非常に重要でした。ですが、結局のところ、この一升瓶の登場も、お酒の水増し問題の解決には至りません。前回の「日本酒の歴史シリーズ 金魚酒・特級酒・醸造アルコール」でも触れていますが、水増しして瓶詰する悪質な酒蔵が登場したからです。この問題は、明治から大正を過ぎ、昭和にまで続いていくことになりました。
クラフト酒
現在、クラフトビールやクラフトジン、クラフトバーボン等が流行しています。このクラフトという意味ですが、日本では「小さい蔵が丁寧に造った」といった訳がされています。そう考えてみますと、殆どの酒蔵の日本酒や焼酎が対象となるのですが、それは置いておきましょう。
「クラフト」という言葉には本来、「家庭で造った手作りの」といった意味も含まれています。日本では、家庭でのアルコール醸成が禁止されている以上、前出の訳に落ち着くのも致し方ないことなのかもしれません。
前回の「日本酒の歴史シリーズ 金魚酒・特級酒・醸造アルコール」でもお話ししましたが、明治32年当時の日本酒は、非常によく飲まれていました。税収においても、全ての税収の中でトップを占めるほどだったのです。政府は、もっと酒蔵が造ったお酒が飲まれれば、税収が増えると考えます。そのため、家庭での酒造りを禁止したのでした。
日本において「クラフト」=「家でお酒を造る」という文化自体は、実は非常に長い歴史があります。
文献でいえば、日本最古の和歌集、『万葉集』(7世紀後半~8世紀後半)にも登場しています。『万葉集』は、天皇、貴族や、下級官人、防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたものです。
味(うま)飯(いい)を 水に醸(か)みなし わが待ちし かひはさねなし 直にしあらねば
(美味しいご飯でお酒を造って待っていた甲斐がありません。あなたと会えないのならば)
この歌からも、当時から既に家でお酒を造るという習慣があったことが確認できます。
古代では、酒造りのことを「酒を醸(か)む」と言い習わしていました。 これは蒸し米を口の中で咀嚼して容器に入れ、発酵させて造るいわゆる口噛み酒に由来しています。つまり、「醸(か)む」と「噛む」がかかっているわけです。
家庭での酒造りが禁止された明治32年以降も、農村部などでは、家庭で日本酒を造る、密造酒はつづきました。
このように、お酒を家で造るということは、非常に歴史が長い文化ともいえます。
もっとも、家庭でお酒を造る行為は未だに禁止されています(梅酒などは既製品のアルコールから造るため問題ありません)。とはいえ、近年ではもう家庭でもアルコール醸成はいいのではないか?という論調も見かけます。もし、解禁されるのだとしたら、日本におけるお酒の在り方もまた変化することでしょう。
終わりに
お酒を瓶に詰めて売るということ自体が、家庭で造ったお酒との明確な区分になったと考えれます。
つまり、一升瓶の誕生の2年前に施行された家庭でのお酒造りの禁止されました。そしてその禁止が、近代化した規格化された瓶の日本酒とそうでないものという区分にもつながったのではないかと考えられます。
もっとも、先に触れたように、農村部などでは、家庭で日本酒を造る、密造酒は一般的でした。この密造酒自体は、戦時中・戦後まで作り続けられていくことになります・・・
これまで、一升瓶の誕生もお話をしてきましたが、実は一升瓶が広く普及し始めるのは、明治34年を大分過ぎてからになります。明確に言えば、大正12年(1923年)のことです。この年起きた関東大震災によって、一升瓶の日本酒が普及していくことになりました。当時は、木造家屋が一般的です。そのため、復興のためには大量の木材が必要でした。桶は木材ですから、当然日本酒の桶に使う程、木材は余っていないわけです。
これに合わせるように、ガラス製の一升瓶の日本酒は一気に普及したのでした。
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