焼酎の歴史を追っていく、「焼酎の歴史シリーズ」。
こんかいは、焼酎の中でも主になる芋焼酎・麦焼酎・米焼酎・黒糖焼酎の誕生をあるていど時系列に沿いながら紹介していきたいと思います。
焼酎が日本で飲まれるようになった歴史についてはコチラ「焼酎の歴史シリーズ 起源の謎」。
紹介していく順番ですが、芋焼酎・麦焼酎・米焼酎・黒糖焼酎の誕生を時系列でみていくため、米焼酎・麦焼酎・芋焼酎・黒糖焼酎の順番となります。
米焼酎・麦焼酎の誕生
米焼酎・麦焼酎としましたが、この章に二つ並べた理由は、どちらが先がはっきりと分かっていないからです。
麦焼酎と米焼酎は共に九州から歴史がはじまります。が、その始まりの場所は九州の中でも反対といえる位置でした。
まず、日本における焼酎の歴史を簡単に見たいと思います。
日本において蒸留酒の存在がはじめて確認されるのは、1404年(応永11年)に、対馬の宗貞茂に朝鮮国から「火酒」が贈られたという記録によってです。
これは『李朝実録』に記されており、現在確認される最も古い文献だと言われています。
16世紀(1501年~1600年)、対馬から60キロ程離れた壱岐に、大陸から蒸留技術が伝えられたといわれ、麦焼酎の生産が始まったとされています。
この16世紀の蒸留技術の伝来に明確な文献や痕跡はありませんが、対馬の例を合わせて考えれば、朝鮮国(大陸)からもたらされたと考えるのが妥当だと思われます。
これが麦焼酎の誕生です。
それでは、米焼酎はというと、その前に、昭和34年、鹿児島県伊佐市にある大口群山八幡神社が改築される際、面白い落書きが見つかったことを確認しておきたいと思います。
永禄二歳八月十一日 作次郎
鶴田助太郎
其時座主は大キナこすじをち
やりて一度も焼酎を不被不候
何共めいわくな事哉
(日頃からけちな座主は神社改修の間一度も焼酎をふるまわなかった。なんとも迷惑なことだ)
永禄二歳とは永禄2年(1559年)のことを指しています。つまり、1559年には大工に焼酎が振舞われる程度には焼酎が鹿児島周辺では一般化していたことがわかります。
この時振舞われていた焼酎が、米焼酎だと考えられます。詳しくは解説しませんが、この時の焼酎は恐らく琉球(沖縄)からもたらされた泡盛がもととなっていると考えるからです(泡盛の原料は米)。
※ちなみに、焼酎でよく使われる黒麹はもともと泡盛に使われていた麹菌です。明治時代に発見され焼酎に利用されるようになりました。それ以前は、黄麹(日本酒で使われる麹菌)が使われていました。
もともと、日本に存在していた日本酒(どぶろく)を蒸留すれば米焼酎になるので、振舞われていたのは米焼酎と考えるのが妥当だと思われます。
詳しくは前述した「焼酎の歴史シリーズ 起源の謎」をご確認ください。
以上のことから、麦焼酎・米焼酎の歴史は16世紀。つまりは、戦国時代からスタートしたといえます。
芋焼酎の誕生
今や焼酎の中でも屈指の人気をほこる芋焼酎ですが、実は主な焼酎の中ではちょうど真ん中あたりの生まれです。
芋焼酎の原料となるサツマイモは1698年に琉球から種子島に伝わり、その後に薩摩(鹿児島)での栽培がスタートします。
そんなサツマイモを使った焼酎が誕生したのは、江戸後期の明治維新にも近い頃の薩摩(鹿児島)でした。
当時の薩摩藩の大名であった島津斉彬は、西洋列強に対抗するために、軍備の近代化を急いでいました。そのために、大量の工業用アルコールを必要としていたのです。
当時の工業用アルコールは米焼酎を造る際に生まれるものでした。が、薩摩(鹿児島)はそもそも余り米作りに適した土地ではなく、米の出来もあまりよくないため、そもそも大量の米焼酎を造るのには不向きな土地柄だったのです。
そこで、島津斉彬は薩摩で広く栽培されるようになっていたサツマイモに目を付け、サツマイモを使った焼酎造りが行われるようになったのでした。
島津斉彬は余ったお酒を薩摩の特産品にするため、飲料用にも利用できるように製造法を改良するという命令を合わせて出し、芋焼酎は爆発的に薩摩のなかに広がっていったのです。
黒糖焼酎の誕生
焼酎の中でも独特の存在感をはなつ黒糖焼酎ですが、これまでみてきた三つの焼酎と比べれば最も新参な焼酎ということになります。
黒糖焼酎の原料である黒糖(黒砂糖)は、1623年に明(当時の中国)から琉球に伝わり、1690年に薩摩藩の直轄地であった奄美に伝わります。なぜ、わざわざ奄美の話をするかと言えば、黒糖焼酎が奄美で生まれた、奄美の酒だからです。理由は後々に。
黒糖焼酎が生まれたのは、1945年の太平洋戦争の後、奄美がアメリカに占領されている頃でした。米作りが余り盛んではなかった奄美ですから、食糧難に陥ります。
当時、奄美で造られていたお酒は泡盛が主でした。明治~昭和の頃に沖縄から奄美に移住した泡盛の職人も多かったそうです。ちなみに、泡盛は米から作られます。
米が足りない食糧難の時に、泡盛メーカーが米が原料となる泡盛を造れるかといえば、造れません。そこで、当時の泡盛メーカーは元々、本土に輸出していましたが、占領されているので在庫も余っていた黒糖に目を付けました。これが、黒糖焼酎の誕生です。
その後、1953年に奄美は日本に復帰することとなります。その際に、当時の日本の焼酎の酒税法には砂糖などを使った焼酎造りが認められていませんでしたが、様々な働きかけによって、奄美で造られた焼酎にのみ黒糖が認められるとなりました。ゆえに、黒糖焼酎とは奄美大島の「酒」なのです。
※通常、黒糖を使った場合、ラムやスピリッツの酒税が適用され、値段も高額になってしまいます。そこに働きかけて奄美の黒糖焼酎が特例で認められた形です。とはいえ、酒税法上もしっかり管理され、黒糖焼酎は黒糖のブロックを使用しなければならないとされています。
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